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​INTORODUCTION

​あたし、どうしてここにいるんだろ

ある日、突然現れたヤジルシに誘われて、さまよい歩く男と女。

出会う人々はみんな奇妙で何かを欠いた様子だけれど、

その人たちのギクシャクした体や不器用な言葉に触れるうち、男と女は無茶苦茶タンゴを思い出す。

何も特別なことのなかった日々が、それでも確かにあったんだったと、思い出す。

そうしてまた、くり返し。

 太田省吾さんの最後の戯曲『↗ ヤジルシ』を上演します。

 この戯曲は、2001年の同時多発テロに対する応答です。9.11が起こってしまうに至る世界を生きてきた者として、9.11以後をどのように生きられるか? 9.11以後の世界で、どのような表現が可能か?(そもそも、表現行為自体が可能なのか?)という問いを、太田さんがどれほど重く捉えていたか。そのことは、2002年に太田さんが批評家の鴻英良さんと創刊した雑誌「舞台芸術」に満ち満ちる意志からも推し量られます。

 9.11は、どこか遠くで、誰か知らない野蛮な人が起こした出来事ではありませんでした。ブッシュ元大統領は「敵」を「我々」の外側に作ろうとしたけれど、「イスラム過激派のテロリスト」たちはヨーロッパで学び、アメリカで学び、ツインタワーに突っ込んだのです。「敵」のオリジンを辿れば「我々」に行き着いてしまう。グローバル化が進み、経済が一元化されて、全てが繋がってしまった世界では、からがら今日を生き延びた「私」が、どこかで別の「私」を踏みにじっています。「テロリスト」は「私」たちから生まれます。誰も無垢ではありません。

 そして9.11から15年が経った今、テロはずいぶん日常的な位置に置かれるようになってしまいました。あまりに頻繁に起こり過ぎて、「○.○○以降の表現」を問い直す間もありません。ちなみに日本について言えば、3.11で明るみに出た「私」による別の「私」への搾取/支配は、より強い力でねじ伏せられ、再び覆い隠されつつあります。「私」たちによる「私」たちの殺害が加速しています。

 芸術になんの意味があるのか、けっこう本気で分からなくなっています。これは一体誰に、どんな現実に効くんだろうか?と思う作品に出会っていると、芸術は、まだ比較的生きられている側の人たちによる/人たちのための慰みなのか?と思います。

 そうではないと思うから、つくります。

​演出 西尾佳織

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